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ヒッポの活動を応援してくださっている先生方

翻訳を通して出会ったヒッポ

Alan Gleason

(アラン・グリースン)

英翻訳家、編集者

2006年ひっぽしんぶん26号

 1990年当時、僕はカリフォルニア州オークランド市に住んでいて、翻訳のフリーランサーとして生活していた。依頼が来るのは科学や技術の分野だけど、特に楽しんでいたのは漫画の英訳。なにしろ初めて手がけた翻訳原稿は、原爆投下の広島を扱った『はだしのゲン』という漫画だった。そんな僕のもとにある日、ボストンの翻訳会社から漫画通の翻訳家を探していると連絡があった。僕は、すぐに「OK」と答えた。

 原稿が届いてみると、これは漫画ではないがおもしろいイラストがたくさん入っている原稿だとわかった。でも、その内容はなんと数学!しかも複雑な、微分・積分モノのようだった。もう何年も前からやっかいな数学とは縁を切ったつもりの僕だったから、こんな本を訳すなんてどうかと思った。まあ、とにかくチャレンジしてみようと思い、正式に依頼を受けることにしたが、しかし、数学関係という内容を考えると、決して楽しみな仕事とはいえなかった。

 改めてその内容に目を通して再び驚いたのは、この本(そう、ヒッポの研究部門であるトラカレから出版された『フーリエの冒険』)を読めば読むほど、ますます自分がその冒険心に引き寄せられ、あれほど苦手と思っていた数学にのめり込んでいったということだ。翻訳者の僕こそ、著者であったトラカレの皆と全く同じ、知識ゼロの原点から始め、皆の理解のプロセスをたどり、縁のないと思っていた数学と少しずつ(ときにはどんどん)親しくなり、自分の頭にそれが入り込んできているのだ。それからの数ヵ月は、翻訳しながら毎日そんな体験をして過ごした。だから英語で原稿が出来上がった頃には、もうフーリエの数学は自分でもなんとなく理解できるという予想外の喜びを感じた。

 翻訳の作業自体はボストンの翻訳会社経由なので、トラカレの皆と直接出会うチャンスはなかったが、この本を通して一体どんなグループなのかと好奇心が湧いていた。本の前書きなどで述べられていた「多言語を学ぶアプローチ」(勉強ではなく、こどものように素直にしゃべること)は、確かにその通りだとすぐに共感できた。なぜなら、日本育ちのアメリカ人であった僕には、すでにその通りの体験があったからだ。日本語は、こども時代を過ごした東京のアメリカン・スクールで勉強したけれど、それは僕にとって数学よりも苦手な授業だった。家族や学校の仲間とは、日常的に英語を使っていたので、買い物や電車に乗るとき以外は、最低限の日本語しか使う機会もなかった。今、日本語を英訳できるほど理解するようになったのも、勉強したからではなく、日本の大学に戻り日本人の友人ができたこと、また長年、下手ながらも遠慮なく彼らと毎日喋ってきたおかげに違いない。

 『フーリエの冒険』の英語版が出た直後、榊原さんがたまたまサンフランシスコに来る機会があって、そこで一緒に食事でもと招待されたのが、初めてヒッポの人たちと出会うきっかけだった。そのとき特に印象に残ったのは榊原さんの話だった。言語の学び方について確信をもって語る彼の理論や、一般の英会話教室の教え方がどんなに意味がないものかという話など、僕なりの体験や考えと深く共鳴した。

 やがて、ヒッポから出版された新しい本の翻訳依頼がきた。見ると、今回は『DNAの冒険』。今回のテーマになっている分子生物学にも、微分・積分とほぼ同程度に無知な僕だったが、僕はもともと数学よりも生命・進化論・遺伝について深い関心を持っていたので、その内容も楽しみですぐに「YES」と引き受けた。また、今回やりとりする相手は仲介の翻訳会社ではなくヒッポのスタッフたちだったことも楽しみの一つだった。

 『DNAの冒険』を翻訳している間、僕は他の仕事との関係で、時々東京に出張することもあった。その際、渋谷のトラカレを訪問し、本のイラストでしか顔を見たことがない著者たち、そしてずっとメールだけで付き合っていた人たちにもようやく会えた。一緒に飲みに行ったり話をしたりして皆と仲間になったことは、僕にとってこのプロジェクトの大きな成果だった。『DNAの冒険』の翻訳の完成までは年月がかかったが、ようやく発行された英語版はなかなか出来のいいものだと今でも思っている。

 ヒッポの研究書の翻訳に関わったおかげで、言語、数学、自然、生命、進化に対する僕なりの理解がいっそう深まったと同時に、「自然の不思議さ」についてもいっそうしみじみ感じるようになった。「ことば」について、今までとはまったく違うレベルで考える余地を与えてもらった。翻訳家としても、一人の人間としても、ヒッポとの出会いには深く感謝している。

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