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創設者のことば

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ことばが話せる自然の論理
-多言語の自然習得-
多言語活動提唱者 榊原 陽

「5歳から英語を始めよう」のキャッチフレーズで1960年代半ばに英語の自然習得を目標に出発した。自分のこどもが生まれた時「この子が大きくなった時、世界はどんどん狭くなっていくだろう。そんな世界を伸び伸び生きていってほしい。それには日本語以外のことばも出来たらいいじゃないか」。そう思ってこの仕事を始めたのだ。その活動に限界を感じ始めたのは、それから十数年ほど経った頃のことだった。多少英語を識っていると思っている大人たちが、いつの間にか先生になっている。その先入観を捨てるのには、学校教育で習った英語をあつかっているだけではダメだと思ってきたのだった。

その時、私はルクセンブルクの公園にいた。5、6歳のチビたちが大声をあげて遊んでいる。ルクセンブルクは多言語の国だ。ドイツ語っぽい音が飛び交っている。ドイツ語なら多少は耳に残る音があるはずだ。ところが全然わからない。これがルクセンブルク語か・・・。そこに、チビたちのお兄ちゃん、お姉ちゃんらしいこどもたちがやってきた。話していることばは明らかなフランス語だった。チビたちのことばも、いっせいにフランス語に変わった。その瞬間私は思い切って英語で話しかけていた。チビたちからは口々に完璧な英語で返ってくる。どれも勉強で覚えたことばとは思えなかった。今一度、自然に学びながら多言語活動を始めようと思ったのは、その時だった。

人間は誰でもそのことばの話されている環境さえあればそのことばを習得できる。日本でなら日本語を、韓国なら韓国語を、また3つ、4つのことばが飛び交う例えばヨーロッパのルクセンブルクのような地方では、そこで話されているルクセンブルク語、ドイツ語、フランス語と英語の4つのことばを同時に誰でも自然に話せるようになる。例外なく、難なくである。幼児が営々努力する姿など見たこともない。このことは外側から分析的に見れば極度に複雑なことばの仕組み、構造も、内側から見れば自然な人間の認識にとって、すばらしく平明な秩序を持っていることを如実に物語っている。表層的には全く似ても似つかぬことばであっても、それが人間のことばである限り、その深層の秩序は普遍的なのである。幼児が何語であれ、環境さえあればそのことばを習得してしまう事実が何よりの証拠なのだ。赤ちゃんにとっては何語であっても、自然言語である限り同じ人間のことばなのである。当時英語で始めたこの活動も、今では20以上ものことばの世界に広がった。ことばの数が問題なわけではない。同じ人間が見つけることばの自然な道筋が、多言語を通してくっきりと見えてくるのである。